眼球って縫えるんです(最終回)

ナースコールは電話のようなシステムになっていて、ボタンを押すとすぐに「どうしましたか」とスピーカーから返答がきます。

「目が痛いんです!痛み止めをくださあああい」

「すぐに行きます」

30秒ほどで白い錠剤をもった看護師さんが現れました。救世主に見えました。

鎮痛剤が効きはじめた頃、M先生から診察室にきてくださいという指令が入りました。術後最初の検診です。先生がゆっくり眼帯をとると、ガーゼには血が付着していました。

「大丈夫だろうか」と思いましたが、先生は私の心配とは裏腹に「きれいですね」と述べたのです。そして「もし傷口から暖かい涙がどんどん出てきたら、すぐに言ってください」と万が一と思えることを投げてきました。

血の涙

自分の病室にもどってからしらばくすると、妻が仕事帰りに見舞いにきてくれました。手術の様子を説明していると、眼帯の下から冷たいものが流れ落ちます。鏡をみると、赤い涙でした。

「血の涙だ!」

生まれて初めてのことでした。しかし一粒だけです。血の涙がつぎつぎとこぼれ落ちれば、またナースコールを押しましたが、どんどんは出ない。しかも冷たい。

妻がマスカットの入った杏仁豆腐を買ってきてくれたので、すぐに食べましたが、直後に吐き気をもよおしてトイレに駆け込みます。

何が原因だったかはわかりません。杏仁豆腐ではなさそうです。鎮痛剤のせいか、手術の緊張からか・・・。左目の中にいた小さな巨人が腹部に移動してあばれている感じでした。手術が終わってもすべてが終わったわけではありませんでした。

ただ妻はなによりも手術がうまくいったことに安堵していました。私がもどしても、血の涙を流しても、慌てた様子はなく、ジョークを言っています。

それからほどなくして晩御飯が運ばれてきましたが、私は一口も食べられずにいました。その晩は気分がすぐれず、目の痛みもあったので午後8時頃には寝てしまいました。翌朝6時過ぎに看護師さんに起こされるまで一度も起きなかったのです。

翌朝、M先生の回診がありました。回診といっても眼科では検査機器が必要になるので、入院患者全員が大きな部屋にあつまります。一人一人が順番にあごを機器に乗せて、先生に診察してもらいます。

眼科病棟には入院患者さんが少ないと思っていましたが、20人以上の方が部屋に集まっていました。

私の番がくると、先生は「きれいです」と前日と同じことを言います。そしてその日の午後に退院できるという判断を下しました。すべての憂慮が消えていくようでした。

1週間ほどの入院を予定していた私は、少しばかり拍子抜けした形で退院しました。

すべてM先生をはじめとする手術チームのおかげでした。あらためて医師という職業と人を救う社会的な役割の重要性を再認識させられました。これは本心であり、真摯な思いです。

ただ術後7日たったいまでも、左目はまるで熟れたプラムのようです。

白目がシロ目になるまでに、あと1週間以上はかかりそうです。(終)

眼球って縫えるんです(5)

手術は白内障の手術から始まりました。私は白内障ではないですが、網膜前膜の手術をした人は数年後、確実に白内障になるので、前もって手術をしてしまうのです。

もちろんほかの選択肢もあります。数年後に白内障を発症するまでまって、それから手術をするのです。私は一緒にするオプションを選びました。

白内障ははっきり述べると「高齢者の病気です」。かりに人間が100歳まで生きたとすると、ほぼ全員が白内障になります。日本だけでも毎年100万人以上が手術を受けています。

3つの穴をあける

白内障の手術は15分ほどで終わりました。そのあとが本丸の網膜前膜です。

手術台の上で寝ていると、室内にピッピッピという心臓音が一定間隔で鳴るのが聴こえます。手術直前に、胸に心電図を測る器具がつけられたからです。さらに右の上腕には血圧計も巻かれています。

手術室にはロックの音楽も流れていました。執刀する先生がリラックできるからでしょう。私の周囲には4人の先生がチームになっているはずでしたがが、声が聞こえたのはM先生ともう1人の先生だけでした。ささやき声も耳に入ってきます。

網膜前膜というのは、硝子体(眼球)が老化などで縮んだり、レーシックなどの影響で繊維性の膜が網膜に付着する病気です。余計な膜が眼球の底にくっついた状態です。その膜が視界をゆがめるのです。

それでは、どうやって膜を剥がすのか。

手術前、ある人と話をしていると「眼球を取り出すんじゃないの」と言っていましたが、最初は私もそう考えました。

じっさいは白目の部分に3カ所の穴をあけて、カッターやハサミ、ライトなどの器具を挿入して膜を剥がしてくるのです。信じられないような手術です。

先生が合図をだした直後、眼球に圧力がかかりました。器具が中に入ったのです。麻酔が効いているので痛みはまったくありません。ただ眼球内に異物がはいる捉えようのない落ち着かなさは、これまでの人生で経験がありません。それを3回。

3カ所もあけるのは、1つが眼球内を照らす超小型ライト用で、2つ目はカッターやピンセット、レーザーなどの交換可能な器具用の穴。もう1つはM先生によると水の穴だそうです。

「手術中、眼球はしぼんできてしまうので、水を入れるのです」

術後の検診で、いろいろと質問をしてわかったことです。すべてミリ単位の世界です。

素人としては「ここまで医学技術は発達したんだ」という感慨がありました。

実は、眼球の中にはいったピンセットの動きが私にはよく見えたのです。ピンセットが極薄の膜をつまみあげ、網膜から剥がしてくる様子がわかりました。まるで影絵を見ているようでした。

27日の検診でM先生に、「3枚、剥がしましたか」と告げると、「エッ、見えたんですか。過去に見えたと言った人は誰もいませんよ」と驚きます。

たぶん見えていた方もいると思いますが、先生に話さなかっただけなのだろうと思います。手術中、頭は動かさないようにと言われました。ミリ単位の手術です。頭部を大きな固定具で動かないようにするのかと思っていましたが、そんなことはありません。1時間、咳もくしゃみもできず、頭部を動かすことも許されない。

幸い大きな出血もなく、網膜に穴もあかず、手術はうまくいきました。最後に先生同士で、傷口を縫うか縫わないかを、話していたのが聞こえました。結局、眼球にはいくつかの縫い糸(あとで溶ける)が残って手術は無事におわりました。

自分の病室にもどってベッドに横になると、落ちるという表現が当たるように寝てしまいました。

数時間して麻酔がきれると、左目の奥のほうから深い痛みがやってきました。小さな巨人が中にいて、足踏みしながらドラムを叩いているような感覚です。

生まれて初めてナースコールを押しました。(続く)

眼球って縫えるんです(4)

手術の当日、午前6時過ぎに看護師さんに起こされました。すぐにシャワーに入って頭を洗い、さっぱりして午後の手術に備えます。

7時過ぎにロールパンとママレード、ハムサラダ、そしてミルクという朝食がトレーに乗って部屋に運ばれてきました。少しだけホテルのルームサービスに似ていると思いましたが、このメニューについてきた暖かい飲み物が番茶でした。

朝食後、コーヒーを買いにパジャマのまま7階から6階に降りました。帝京大学病院は1階にレストランやナチュラル・ローソンが入っていますが、入院患者のために6階にもローソンとレストランがあります。

前もって看護師さんから午前11時から30分ごとに「数種類の目薬をさしにきますので部屋にいてください」と言われていました。男性の看護師さんが本当に11時ジャストにやってきて、手際よく次から次へと目薬をさしていきます。次に来たのも11時30分ピッタリで正確さに驚きました。

そして真っ白い手術着とメッシュの青いヘアキャップを移動式の机の上に置いていきました。いよいよ手術です。女性の看護師さんが再度、説明にきた時に訊きました。

「全裸で手術着を着るんでしょうか」

「いいえ、パンツははいていて結構です」

「ということは、下の毛は剃らない?」

「剃りません」

手術によっては上半身の手術でも下の毛を剃ると聞いていたからです。さすがに目の手術では必要ないようでした。

執刀医のM先生も部屋にきて励ましてくれました。そして左目の上に赤いマジックで丸を描いていきました。毎日、何人もの患者さんがさまざまな目の手術をするので、どちらの目かを間違わないようにするためです。

まるでインド人女性が額の中央につける「ビンディ」が横にずれたようで、おちゃめというよりイタズラ書きでした。さらに左足の甲に黒いマジックで自分の名前を書くようにいわれました。

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ドクターXの世界へ

手術は夕方5時ごろからと聞いていましたが、早まって午後1時半頃から始まると告げられました。そして左腕に筋肉注射を打たれ、いよいよドクターXの世界に突入です。少しだけ鼓動が早くなりました。

手術着に着替えて待っていると、すぐに幅の狭いストレッチャーが部屋に運ばれてきて、ベッドから移動するようにいわれました。両腕がストレッチャーのエッジにあたると体温がうばわれていくほど冷たいです。

手術室は3階でした。男性の看護師さんがストレッチャーを動かします。廊下を移動し、エレベーターに乗せられます。一般の方も使うエレベーターで、乗っていた人から好奇の視線を感じました。テレビドラマや映画で観る光景そのままです。

私はずっと目をつむっていました。

3階に着いて、さらに移動してから止まりました。頭を起こして周囲を見渡すと、手術室は巨大な倉庫のように見えました。天井も高く、5メートルくらいありそうです。すぐ横に女性の看護師さんが付き添ってくれました。

「少し待ってくださいね。寒いですか」

手術室は大きな保冷庫のようでもあり、パンツ一枚に薄い手術着だけの身には寒い。手術時間はほぼ1時間と聞かされていたので、「まあ耐えられるか」という思いでしたが、5時間もかかる手術であれば寒さで震えると思ったほどです。

M先生が「堀田さんは健康だから、点滴はしなくていいですかね」と言ってきました。

「どちらでもいいです」

20秒ほどしてM先生がもどってきて、「規則だそうなので点滴をします」と述べます。ほとんど患者さんは、最初から点滴をしているという証拠です。

「抗生剤ですか」と私が訊くと、「いや、万が一の時のためにすぐに薬を入れられるようにするのです」と呟きます。いちおう本格的な手術なのです。

ストレッチャーから手術台に移動する時も自分で動きます。重病患者ではありません。すぐに全身を覆う厚手のシーツのような布がかけられました。左目だけが露出しています。

看護師さんが左手の静脈に点滴の針をさしました。そして目の周囲が十分に消毒され、目の中に麻酔を垂らされていよいよ手術のスタートです。全身麻酔ではありません。

執刀医のM先生がこれから行う手術の名称を発声しています。単に「網膜前膜」という名前だけでなく、前後に漢字がいくつもついた長い名前です。ドクターXで観るそのままです。

左目の瞳孔はすでに開いており、強いライトが当たっていることはわかりますが、先生の顔も手も判別がつきません。

数秒後、ほとんどいきなりといった感覚で眼球が切られていました。(続く)

眼球って縫えるんです(3)

帝京大学医学部付属病院に決めたのは、自宅から比較的近かったこともありますが、私の病気(網膜前膜)の治療実績が昨年度、東京都で3番目に多かったからです。ちなみに1位は昭和大学病院、2位が日本大学病院です。

入院日がきまると、担当のM先生は手術内容を丁寧に説明してくれました。失明の可能性もないことはないですが、確率は0.1%。1000人に1人です。

ただ「アチャー」と思われたのが、手術中に網膜に穴があいたり、多量の出血が起きることがある点でした。その時はガスを眼球に入れて安定させ、術後5日くらいはずっと下向きで生活しなくてはいけません。状況次第では、10日間ほどの入院もあると聞かされました。

そうなると、寝る時はマッサージなどで使用される頭部に穴のあいたベッドで、うつ伏せで寝ます。起きているときも、首をずっと前に折り曲げて下を向かざるを得ない。「落ち込んだおじさん」をずっと続けなくてはいけないわけです。

「その時は頑張ってください」

平然とM先生は言ったので、私も平静を装って「頑張ります」と即答しました。「下向きおじさん」にならないことを祈って・・・。

初めての入院

60歳になるまで入院経験はありませんでした。緊張で胸がドキドキするというより、知らない世界を体験できるという興奮の方が勝っていて、少しばかり楽しみでもありました。死ぬことはないですし、未開地を探索するような思いだったのです。

原稿の連載は1週間ほどお休みをいただき、テレビ局のディレクター数人にも1週間は出演できないと告げました。

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帝京大学医学部付属病院は新しいビルができて8年目でした。まだすべてがピカピカという印象で、入院病棟はベッドからシャワー室まで新築のにおいがするほどです。

眼科の病棟は7階で、中央にスタッフルームがあり、取り囲むようにして病室が配置されていました。手術前日に入院し、翌日の夕刻に手術をするという段取りでした。

病室に入っても、左目以外はいたって元気なので、何を食べてもいいということでした。持参したパジャマに着替えるまえに妻と一緒に病院1階にあるレストランで昼食をとり、さらにドトールコーヒーでお茶を飲んでくつろぐという、入院のイメージとはかけはなれた時間を送りました。

ただ妻が帰り、パジャマに着替え、夜になって病院食(写真)が出された頃から、ようやく入院したという実感がわいてきました。

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食事はご覧のとおり、「シ・ン・セ・ン」でした。

そして午後9時に消灯になると、病人らしい振る舞いをしなくてはいけないような思いに駆られましたが、病室ではずっと隠れてテレビを観ていたのです。「意外に楽しめる」と自身に言ったほとです。

翌日、何が起こるかも知らずに。(続く)

眼球って縫えるんです(2)

(昨日からの続きです。今日は手術から3日目。まばたきをすると、まだ眼球の縫い糸がチクチクします。殴られたあとのように、いまだに白目は全面充血しています)

自宅の近くの眼科医にいくと、すぐに眼底写真を撮られ、簡単に診断がでました。

「網膜前膜(もうまくぜんまく)です」

医師ははっきりした口調で断定しました。ネットで調べた病名にはなかった診断だったので、もう一度聞き直しました。

「黄斑上膜ともいいます」

生まれて初めて聞く病名でした。すぐに反応できずにいると、医師は早口に「この病気に自然治癒はありません」と言い、このままだとどんどん視力が悪くなると告げてきました。目の前に暗いベールがかかるようでした。

「ただ短期間で悪くなることはないですから、しばらく経過観察をして、手術するかしないかを決めてください」

薬はいまのところ開発されていないので、手術しか手立てはないという。放っておくと、ほとんどの患者は視力が0.1以下にまでさがるらしい。ただ高齢者であれば、手術をせずにそのままにしておく人もいるということでした。

レーシックの問題点

医師との会話の中で、私が以前レーシックの手術をしたことを話しました。すると医師は目尻に少しシワを寄せて、「レーシックですか・・・」と浮かない顔をしたのです。

角膜にレーザーを照射して視力を矯正するレーシックが多用されはじめたのは10年ほど前です。年間40万人くらいの人が受けていました。しかし今では手術を受ける人はずっと減っています。というのも、問題点が多く指摘されはじめたからです。

私がアメリカでレーシックを受けたのは2000年でした。アメリカでは年間100万人ほどが手術を受けていた時期です。近視の人は受けるべきという風潮さえありました。

しかし近年は視力低下や網膜の病気を併発する症例がずいぶんと報告されています。もちろん何の支障もきたさない人の方が多いです。

忙しい眼科だったので、医師は手短かに病状を説明しただけで診察を終わらせようとします。最後に私が「手術する場合は・・・」と言うと、「ここではできないので、大学病院に紹介状を書きますよ」と返答しました。

自宅への帰り道、この医師には頼みたくないと思いました。事務的な冷たさが嫌だったからです。あらためて別の眼科医に診てもらうことに決めましたが、心には厚い雲が垂れ込めていました。

ネットで網膜前膜のことをずいぶん調べてから別の眼科医で診てもらうと、診断は前回と同じ「網膜前膜」。病名は確定しました。ただ2人目の眼科医は、いわゆる上から目線ではなく、患者と同じ視線にたち、親身になって話を聞いてくれます。

やはり手術しか治す手段はないという答えだったので、その時点で手術を受けることに決め、硝子体(眼球)を専門にしている帝京大学医学部付属病院の眼科に紹介状を書いてもらうことにしました。

生まれて初めての入院が迫っていました。(続く)