オリンピックと限界

テレビでオリンピックを観ていると、知らないうちに「なんて偉そうなことを言っているんだ」という思いでハッとさせられることがある。

柔道の試合を観ていても、北島康介の泳ぎを観ていても、身勝手なセリフをテレビ画面に向けていたりする。勝手なものである。「それじゃ自分でやってみたら」と言われると、なんとも返答のしようがない。

さらに4年ごとにオリンピックを観て思うのは、それぞれの競技にいつかは世界記録が固定されてしまうだろうということだ。北島が決勝で敗れた時、優勝した南アのキャメロン・ファンデルバーグは58秒46の世界新記録だった。

この記録は今後も破られそうだが、人間の能力の限界は確実に近づきつつある。

1968年のメキシコ・オリンピック。走り幅跳びで優勝したボブ・ビーモンは8メートル90センチを跳んだ。当時小学生だった私はビーモンの飛翔を鮮烈に覚えている。同時にテレビ解説者が、「この記録は今後1世紀は破れないかもしれません」と言ったことも記憶にある。

小学生ながら、この記録が人間として最長の飛翔なのだと思い込んだふしがある。だが23年後、アメリカ人のマイク・パウエルが東京で行われた「世界陸上」でビーモンの記録を5センチ上回って着地した。100年は持たなかった。

だがあれから21年。誰もその記録を超えていない。もしかすると今後1世紀、いや人間が人間である以上、もう超えられない記録かもしれない。今はまたそうした思いに駆られるが、偉大な選手がのちに登場する可能性の方がたぶん高いだろう。

それは柔道やテニスといった記録をめざさない競技以外すべてにいえることだ。

けれども、よく考えてみると100メートル走にしても水泳の100メートル自由形にしても、いつかはこれ以上速く走れず、泳げずという日がくるだろう。

ウサイン・ボルトはすばらしい走者だが、8秒台は無理だ。水泳も、今後人間にヒレでも生えないかぎり、100メートルを30秒で泳ぐことは無理だろう。となるといつかは人間の限界がきてしまうのか。

                           

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こんなつまらない思いにとらわれていてはオリンピックがつまらなくなるし、選手に失礼だ。素直に喜んだり「ザーンネン」と思うことにする。(敬称略)